9月6日放送のプロジェクトX
「回避せよ 東京湾炎上」で、「ひょっとしたら」と思うものが背景に写ってました。
プロジェクトは、海洋レーダーに取り組む沖電気の技術者をも巻き込む総力戦となった。
ということで、番組開始から30~31分ころに沖電気の黒崎さんのインタビューがあるのですが、その背景にはミニコンが写っています。
「CPU」と右上にあるのがわかりますが、あのランプの配置、ピアノ・キーの配置は、ひょっとしたら「OKITAC 4300C」ではないかと思うのです。
ピントがぼけてるのですが、「CPU」の左の方はなんとなく「4300C」と見えるのですが、気のせいかなぁ。
ウチのかみさんと2人で、「やっぱり43Cやで」といってるんですが。
いや、なんでこだわってるかというと、大学のときにその上位機の4500と4300を使っていたからです。
4500は「DOS45」で、4300は「SAP43」で動作させてチャネル結合させてました。
4500でグラフィックの計算させてその結果を4300に送って、4300が
テクトロニクスのストレージ管型グラフィックディスプレイに描写させてたんです。
いやー、
・Fortranやアセンブラはもとより、機械語まで覚えたのも、
・16進数覚えたのも、
・ブートストラップの早撃ち競争したのも、
・逆アセンブラつくって(FORTRANではビット演算できないから、アセンブラでビット演算のサブルーチンや、ハードディスクのトラックとをセクターを指定して読み出すサブルーチンを作りました)DOSの仕組みを勉強したのも、
・プログラムが大きくなって実行できなくなったときは、メインルーチンはメモリに常駐させて、必要なサブルーチンは必要なときにだけメモリーに呼び出すようにオーバーレイする方法をリンカーへの命令で指定する方法を覚えたのも(それが必要になったのはスタートレックゲームでコマンドを増やしたためとはとてもいえない!(^^)!、
・リンカーに、リンクするライブラリの順序指定がなぜ重要なのか(名前解決問題)を体験で覚えたのも、
ぜーんぶOKITACでしたから。
そのあとはMELCOM COSMO700Sでした。これのOSはunixをtelnetで使ってるみたいな感じだったんですが、それは当然でオリジナルはXEROXのSigmaOSだったようです。
閑話休題。もう、OKITACの技術文書は読み漁って使い倒しましたからねぇ。マニュアルでは「実行アドレス」「実効アドレス」が誤植なのか、意図的なのかまざって使われていたのには閉口しました。
ま、それも、これも、先輩や、理解ある先生のおかげ。当時は神棚といわれるコンピュータを、学部学生が管理者まがいのことまでして(ディスクドライブのテープへのバックアップは当然。当時はフォントすら手作りで漢字処理をしてました。CPUとディスクパックを何日も独占して漢字混じり文からシソーラス作成処理なんかしてました)勉強できたのですから、私としては幸せでした。
昭和53年ごろの話です。
(2005.9.9 3:21更新)
高校でパソコンを持っていた、私には、大学で自由に使え、しかも管理までさせてもらえた MELCOM COSMO700Sは新鮮でした。(昭和60年~)
カードリーダー用の変換プログラムや、電子メール&掲示板システムの開発など、利用者を意識したプログラムづくりのきっかけの殆どが、この機種でした。
そうそう Common Lisp上で中島先生のPrologを動かしてカットオペレータを追加したりもしていました。
一応最後まで看取ったはず・・・。
これに慣れてしまったので、その後に入ったFACOM M360 は、使いにくかったです。(ファイルの排他制御が無いとか・・・)
MELCOM COSMO700Sのマニュアル間違い発見マニア状態でした。
サンプルプログラムを片っ端から試してましたから。で、仕方が無いので、元になった英文マニュアルを納入いただけたわけです。
Fortran77、COBOLからDBが使えたし。ファイルシステムはいまのUNIXみたいに自動的にサイズを増やせるモードもあったから、汎用機のM360とは設計思想からしてちがうよね。
言語も、ほんとにおもちゃ箱みたいにいっぱいあった。BASICやPASCALはお遊び程度のレベル。LISP1.5もあったし、ALGOLもあった。僕的にはAPLにはまりました。キーボードにAPL記号を貼り付けて、ほんと暗号のようなプログラムでした。タブレットから画像をトレースして入力するプログラムを作ったので、ベクトル演算で座標変換が簡単にできるAPLは便利でした。でも、デバッグできない。自分で何してたのかわかんなくなるんです! (^^)! 。そうおす、PILOTという名前だったっけ、会話するためのようなプログラムもあった。もあったかな。バーサテックの静電プロッタがキチンと動作できたあとは、大倉君が濃淡処理プログラムを作って写真をだそうとしたりして、楽しんでました。